月日が流れるのは本当に早い。いつのまにか2ヶ月も更新してなかった。(汗)

って、前回も似たような出だしで書いてるな。。。
なんか一回書かなくなると、どうも書き方を忘れてしまう。
何か書きたいという衝動が薄くなるというか。

そういえば、とある友人と話していたときに、僕が日頃考えているちょっとした仮説を話したら「かなり面白いのでブログで書いてみてください!」と言われたので今回はそのちょっとぶっ飛んだ仮説について書きたいと思う。


題名「人類による分散型ネットワークモデル構想」

前提となる仮説
まだ科学で発見されていないだけで、実は人類は自分だけでなく他者の脳内における微弱な電波・電流を感知し、それを自分の脳で解析し理解する事、あるいは蓄積する事が可能である。よって、全人類の脳は、言葉を介さずとも無意識下で互いに交流しており、人類が生まれてから今までの全ての人物の記憶情報は、全人類脳間ネットワーク内にて分散して蓄積されている。(現代科学では人類の脳の90%が眠っているように解釈されているが、実はこの部分に膨大な記憶情報が蓄積されている。)

また、人類は、顕在意識とは別に、この全人類脳間ネットワーク全体を1つの脳として、人類全体意識(=全員共通の無意識)というものを持っている。当然、人類全体意識は、我々個体の意識と同様、意思を持っている。基本的にその意思は、人類全体の繁栄を中心に考えている。

人類全体意識の介入
我々人類は、それぞれ個々人の自由に考え行動しているように見えるが、実は全ての思考・意思決定に人類全体意識が介入している。

一見すると偶然に見える人の出会いや、あるいは画期的な発想は、全てこの人類全体意識がもたらした物であり、人為的に引き起こされた全ての出来事は、実は人類全体意識によって統制されている。よって、我々が体験するほとんど全ての出来事は、必然であり、人類全体意識によってわざと引き起こされている。

ひらめきの真実
よく発明家や経営者などが、苦労して考え続けた挙句、通常では考えらない発想をひらめいたりすることがあるが、あれは、人類全体意識によってもたらされている。膨大な人類の総合データベースにアクセスした結果、個人では考えつかないようなひらめきを得ることが可能となる。

生まれ変わりの真実
前述したが、全ての人物の記憶情報は、、全人類脳間ネットワーク内にて分散して蓄積されている。我々は新しい人類が誕生した際、このネットワークに存在する1つの記憶情報(人格含む)を、その新しい生命にダウンロードする。このため我々には前世の記憶というものが存在する。ただしこの前世記憶は、簡単には顕在意識からアクセスできないようになっている。

心霊現象や超能力の真実
幽霊という形で、すでに死んでしまった人物が現れる、あるいは声が聞こえるなどの現象は、この仮説が正しいとすれば説明がつく。全ての人格・記憶はネットワーク上に存在するため、どんな人物でも再現することは可能である。視覚情報や聴覚情報は、結局のところ脳に流れる電流・電波でしかなく、それを操作すれば、実際に目の前に存在しない人物を、あたかもそこに存在しているように見せることは可能である。

超能力もこの仕組みに近い。まず説明が簡単なのはテレパシーであるが、これは仮説にある人類の隠れた感知能力を健在意識が使えるようになってしまったパターンだ。元々持っている機能にすぎない。

透視能力も説明がつく。テレビ番組などで、他の人物が書いた絵を封筒に入れ、それを見ていない超能力者が封筒の外からその絵を当てるわけだが、単にこれは書いた人物の記憶情報にアクセスしているだけである。

物を動かしたりスプーンを曲げる念動力はどうか? 実は実際にはスプーンは曲がっておらず、それを見ている全員が視覚情報などを操作されているとすれば解釈ができる。 

顕在意識と人類全体意識
実は我々の顕在意識は、逆に人類全体意識にアクセスして操作することもある程度可能である。「思考は現実化する」「鏡の法則」など、多くの書籍で言われている必然の法則のようなものは、これにより説明可能である。


インターネットと本仮説の関連性
この仮説は、インターネットとそのネットワーク上にあるサーバの関係によく似ている。これは当然で、我々はこのような仕組みがあることを無意識下で全員知っており、それに似せた仕組みを電子的に創り上げたものがインターネットだからだ。インターネットは、いわば、顕在意識が創り上げた擬似脳間ネットワークのようなものである。

インターネット技術が進化していくと、ゆくゆくは全人類脳間ネットワークに近づいていくだろう。これを手に入れることで人類は、顕在意識と人類全体意識の境界を少しずつ薄めていくことになる。

そうなると、「お金のいらない国」の寸劇にあるような贈与経済が実現する可能性が高くなる。


なぜ人類は全体意識優先にしなかったのか?
たとえばアリは、女王アリのために本能的に自己犠牲する。種族全体が、個々の生命よりも種族全体の繁栄を目的としている。顕在意識も存在はしているが、全体意識に完全に従属している。

しかし人類は、一見すると顕在意識の方が優先されている。なぜ人類は最初から全体意識に顕在意識を従属させなかったのか? なぜ殺人や戦争のリスクを抱えてまで顕在意識を優先したのか?

これは、恐らくより高度な仕組みを創り上げるためではないかと思われる。他の種族と違い、全体意識によって強く統制された中央集権型組織ではなく、全体意識はあるものの無意識下に控えめに存在することで、顕在意識を自由にし、より高度で複雑な処理や仕組みを作れる自律分散型組織を目指したものと思われる。

ただし、ある一定レベル以上の文明を創り上げた場合、じょじょに顕在意識優先の世界はその意味を失っていく。そして、文明レベルの向上と合わせて、少しずつ人類全体意識が優先されていくようになる。宗教的な言い方をすれば、みなが神(=人類全体意識)に戻っていく現象が進んでいくだろう。

近年、顕在意識の思考性が、唯物主義から精神主義、利己的でなく利他的にシフトしていくのはこのためである。家族のあり方から会社組織、行政、国家組織、全てが変革の時を迎え始めている。

なぜ愛が真実なのか?
より高度な仕組みを創るために個々の顕在意識を優先した人類だが、完全に顕在意識を野放しにしているわけではなく、その根っこは全体意識が支配しているという片鱗を見せる時がある。その典型がだろう。

利他的な行動に喜びや幸せを感じるこのというものも、単に個々の生物としてしか捉えなければ不可思議なものでしかないが、人類全体意識が存在するとすれば、存在して当たり前だ。全体で1つなのだから、当然他の個体の幸せは自分の幸せとリンクする。我々は、そのようにインプットされているのだ。

会社組織などにおいて、従業員が会社に、より社会貢献的なビジョンを求めるのはこの影響かもしれない。


書いてみるとすごく長くなってしまった。(汗) ていうか表現するのが難しい・・。 上手く書けず、構想の一部しか書けていないがまずはアップしてみます。オモシロイと思った人は感想よろしくです。